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麻布地区大改造 再開発直前の街を歩く-6

「虎ノ門・麻布台地区第一種市街地再開発事業」の予定地を歩く連載の第6回目。

MFPR六本木麻布台ビルの角を曲がり、在日サウジアラビア王国大使館前を通って麻布通り(東京都市計画道路幹線街路放射1号線)に出た。

この角地(上の写真)には、かつて国家公務員宿舎の「六本木住宅」があったが、20171月に実施された入札にて森ビルが落札している。この場所自体は再開発施行区域外であるが「10者が応札した(建通新聞電子版2017222日より)」そうであるから、相当な力を入れて隣接地を取り込んでいることがわかる。当地を訪れた4月初旬現在では、既に仮囲いで覆われて解体が進められていた。

解体現場を左に曲がると「行合(ゆきあい)坂」となる。坂の由来は下記の通り。

行合坂
双方から行合う道の坂であるため行合坂と呼んだと推定されるが、市兵衛町と飯倉町との間であるためか、さだかでない。麻布台一丁目4番、六本木三丁目3番の間(観光マップみなと 坂と史跡のまち)
(増補港区近代沿革図集 麻布・六本木 編集:港区郷土資料館 P.299より)

道の南北から同じような勾配で下がり、底となる中央部で我善坊谷を東に向かう道に接続するという特異な地形だ。上記由来には控えめに「さだかではない」とあるが、これを「行き合う坂」と呼ぶのは腑に落ちる。さらに、その我善坊谷を東に向かう道を「落合坂」と名づけるあたり、江戸の風流すら感じよう。もしその行き合いつつ落ち合うことを体感されたいと思われたなら、早めに現地を訪れて頂きたい。なぜなら本再開発にて、行合坂は下図のように嵩上げされる予定だからだ。

行合坂
行合坂の現況と嵩上げ後のイメージ(出典:内閣府国家戦略特別区域会議 第11回東京都都市再生分科会(平成29年1月10日開催) 配布資料

「計画イメージ」図には、ランドセルを背負った小学生の姿が描かれている。この行合坂の南側にある区立麻布小学校の児童を想定しているものだろう。方向的に登校時のイメージのようだが、なぜか影は太陽が南西側にあることを示している。

落合坂
落合坂。我善坊谷の東西を貫く道が続く。

「消える坂」行合坂を下り、その底に到達したところで左に続く落合坂を行こう。これまで見た、三年坂、我善坊坂、行合坂に比べるとずいぶんと傾斜が緩いことが写真からもおわかりだろう。少し進むとすぐ右に「横川省三記念公園」がある。

横川省三記念公園
横川省三記念公園。奥には横川氏の来歴が書かれた碑がある。

元朝日新聞の記者で、日清・日露戦争では海軍従軍記者などとして活躍した横川省三氏(18651904)を記念して造られた公園です。 港区ウェブサイトより)

とのことだ。同じく港区ウェブサイトによる紹介を読むと、元は遺族保存会から寄贈された現六本木3丁目の土地にあったものが、首都高速道路建設時に現在の位置に移転したそうだ。前回記事に引用した配置図の外務省飯倉公館北側に「区立公園の整備」と記された部分がある。恐らくはそれが横川省三記念公園の更なる移転先なのだろう。「虎は死して皮を留め、人は死して名を残す」と言うが、横川氏は公園も残した。

落合坂
落合坂の下より上を見る。かなり緩い勾配だが、ブロック塀下部の立ち上がり寸法の違いにより、かろうじて坂であることがわかるだろう。

そのまま東に進むと、この道を軸に南北に路地が伸び、その路地に接道する形で家々が建ち並んでいる。いわば「両歯の櫛」のような構造の街だ。そして、南も北も高台があるため、どの路地を覗いても同じように行き止まりとなっている。

路地
落合坂途中の路地より北を見る。道の奥は高台で阻まれ、その上にMFPR六本木麻布台ビルが建つ。
吉田苞竹記念会館付近の路地より南側を見る
吉田苞竹記念会館付近の路地より南側を見る。北側と同様に視線の先は高台の崖だ。

従って必然的にこの道を通る車も少なく、道路上で猫がのんびりと昼寝をしているようなところだ。仮に麻布郵便局の敷地が再開発エリアに入らないまま計画が進められていれば、外務省飯倉公館脇に道路が新設されたとしても、我善坊谷の持つ閉塞感は引き継がれたに違いない。我善坊谷界隈の再開発計画にとって南に位置する麻布郵便局の敷地は、ロシアによる不凍港確保のための南下と同様に重要な策だったのだろう。(次回最終回につづく)

吉田苞竹記念会館跡
書家・吉田苞竹の旧宅(写真左の門の向こう)が保存された吉田苞竹記念会館も既に閉館している。

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