工事の着手を来年3月に控えた「虎ノ門・麻布台地区第一種市街地再開発事業」の予定地を歩く連載の第5回目。
「虎ノ門・麻布台地区第一種市街地再開発事業」の北縁にあたる、アークヒルズ仙石山テラス南側の道路。高台と谷地の境界を西に進むと六本木ファーストプラザに差し掛かるあたりで、高台から谷地に下りることの出来る唯一の公道がある。港区内の坂には大抵の場合、坂の名前と由来などが書かれた木製の標柱があるが、それも無い。
古い地図などを見ても、名前が記されているものは見当たらないが、港区近代沿革図集によると「我善坊坂」と呼ばれているらしい。
我善坊坂
三年坂を下って市兵衛町一丁目、東久邇宮邸の方へ上る細い急な坂(麻布の坂「墓蹟別冊第一麻布号」所収)
注 現在の虎ノ門五丁目7番と麻布台一丁目1番との間を六本木一丁目へ向かって上る細い急坂。特に坂道の標柱などは設置されていない。
(増補港区近代沿革図集 麻布・六本木 編集:港区郷土資料館 P.196より)
同資料によれば、そもそも「我善坊」の由来にも諸説あるようで、
我善坊 麻布我善坊町を里俗我善坊と唱える。元組屋敷(東京区分町鑑)
麻布我善坊町は、旧幕府先手組の屋敷地で里俗我善坊谷と言ったのを、明治5年(1872)、谷の字を省いて町名とした。(東京府志料)
麻布我善坊 西久保城山町の台地と飯倉六丁目の台地との間にある麻布我善坊谷を町域としている。谷名の起源は座禅坊谷とか龕前堂谷とか、いろいろにいわれている。(後略)(港区史)
(増補港区近代沿革図集 麻布・六本木 編集:港区郷土資料館 P.197)
と、明らかにはなっていない。なお先手組(さきてぐみ)とは、江戸幕府における警護の職にあたっていた与力や同心のグループを指している。現代で言えば警視庁の寮といったところか。
我善坊坂を高台から見下ろすと、瓦屋根の古い日本家屋やひときわ目立つ。(最上部写真)すぐ近傍には高級マンションが建ち並ぶ現代的な風景が広がるが、まもなく消えようとしているもののこれもまた21世紀の「麻布台アドレスに住まう」のひとつの姿だ。
この高台から谷地に降りるには、我善坊坂を通るほかには無いが、一部のマンションでは共用廊下が両者を結ぶように設計されているものもある。もちろん関係者以外はみだりに通行してよいところではないが、中にはエッシャーのだまし絵のような雰囲気のあるものもあり興味深い。
途中南側に目を向けると、谷地の向こうに麻布郵便局の背面が目に入る。その地盤面の標高は、現在立っているアークヒルズ仙石山側の高台と同じくらいだ。
本再開発に関わる公表資料中の緑化空間に関わる図を見てみよう。上記写真を撮影した地点は、下図上部中央に記載されている「生態系ネットワーク」と書かれたあたりの道路から南を見たものであるから、写真のやや左側に「中央広場」と名づけられた広い空地が設けられることになる。図中には「三年坂の保全」の文字も見えるため、谷全体を大規模に埋めるような計画ではないようだ。
(出典:内閣府国家戦略特別区域会議 第11回東京都都市再生分科会(平成29年1月10日開催) 配布資料)
「アークヒルズ仙石山森タワーの生物多様性の取組を計画地に拡大」との文字もある。森ビルの 故 森稔氏は、生前に「Vertical Garden City 」の構想を掲げ、さまざまな生物が生息することの出来る再開発を目指していた。アークヒルズ仙石山森タワーにおいては、
「地域に古くからある在来の植物を多く植え、生きもののすみかとなる枯れ木を残し、工事前からここにあった古い土壌を敷地内各所の植栽基盤として利用するなどの試み(森ビルウェブサイトより)」
を行っており、本再開発計画でもその思想をさらに発展させる規模で継承しようとしていることがわかる。「中央広場のイメージ」と題されたスケッチには方向が明示されていないが、高層棟の基壇となる部分を開放的なテラス状のモールで計画地内の高低差を解消し、そうでなければ斜面緑化による修景が施されるようだ。いずれにしろ、現状の我善坊谷に比べて開放的で風通しのよい場所になることが期待される。
そのまま道なりに西北西に針路を取ると、MFPR六本木麻布台ビルのあるブロックに行き当たる。現在は民有地であるが、このビルの南側を新たな道路が通り、麻布通りに接続する予定だ。残念ながらそのルートをなぞることは現時点では出来ないため、同ビルの北側を回って麻布通りまで出よう。(つづく)
Be First to Comment